大型ハドロン衝突型加速器(LHC)における長寿命粒子(LLP)探索の現状と将来展望
はじめに
素粒子物理学の標準模型は、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用という3つの基本的な力と、それらを媒介する粒子、そして物質を構成するクォークやレプトン、さらにヒッグス粒子を含む、粒子の振る舞いを記述する非常に成功した理論体系です。しかしながら、宇宙の暗黒物質や暗黒エネルギーの存在、ニュートリノの質量、宇宙における物質と反物質の非対称性など、標準模型では説明できない現象が多数存在しています。これらの未解決の謎を解明するためには、標準模型を超える新しい物理理論の構築が不可欠であると考えられています。
新しい物理現象の有力な候補の一つとして、長寿命粒子(Long-Lived Particles, LLP)の存在が挙げられます。LLPは、その名の通り、標準模型の粒子と比較して非常に長い寿命を持つ仮想的な粒子です。これらの粒子は、非常に弱い相互作用を持つため、生成されてから崩壊するまでに比較的長い距離を移動し、検出器内で特異なシグネチャを残す可能性があります。大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は、高エネルギー陽子衝突を通じて新しい粒子を生成する能力を持つことから、LLP探索の最前線に位置しています。
長寿命粒子の物理的起源と理論的背景
LLPの存在は、様々な新しい物理モデルによって予言されています。これらのモデルでは、LLPが「隠れたセクター」(Dark Sector)と呼ばれる、標準模型の粒子とは非常に弱い相互作用しか持たない領域に属することがしばしば想定されます。例えば、以下のようなシナリオが考えられます。
- 超対称性理論(SUSY)におけるLLP: 超対称性理論においては、最も軽い超対称性粒子(LSP)が安定な暗黒物質の候補となる場合が多く、その崩壊生成物がLLPとなるシナリオや、LSP自体が非常に弱い相互作用を持つためにLLPとなるシナリオが存在します。例えば、重いゲージメディエーターを介した超対称性粒子の崩壊が、検出器内で飛跡の途切れた事象(displaced vertex)を引き起こす可能性があります。
- 暗黒セクターのゲージボソン: 暗黒セクターと標準模型が非常に弱い力(例えば、キネティックミキシング)で繋がっている場合、暗黒セクターのゲージボソンがLLPとなることがあります。これらの粒子は、暗黒物質との関連性を持つことが多く、LHCで生成される可能性があります。
- ニュートリノ質量起源と関連するLLP: シーソー機構など、ニュートリノに質量を与えるモデルでは、新しい重い右巻きニュートリノのようなLLPが予言されることがあります。これらはレプトン数保存則を破る崩壊を起こす可能性があり、素粒子物理学の基本的な対称性に関する深い洞察を提供します。
LLPが長寿命を持つ主な理由は、その崩壊幅が非常に小さいことによります。これは、相互作用結合定数が極めて小さい場合や、崩壊に至るまでに大きな位相空間の抑制がある場合などに生じます。例えば、非常に軽いが弱い相互作用を持つ粒子が、高次効果を介してのみ標準模型粒子に崩壊するような場合です。
LHCにおけるLLP探索の課題と実験手法
LLPの探索は、その特異な性質ゆえに、標準的な粒子探索とは異なる課題を伴います。通常の粒子探索では、生成された粒子が直ちに崩壊し、衝突点(primary vertex)から生じる明確な飛跡やエネルギー堆積を観測します。しかしLLPの場合、検出器内をある程度移動してから崩壊するため、以下のような特徴的なシグネチャを探すことになります。
- オフセットされた頂点(Displaced Vertices, DV): LLPが主衝突点から離れた場所で崩壊し、そこから複数の荷電粒子の飛跡が生じる事象です。これは、飛跡検出器やミューオン検出器の異なる領域で観測される可能性があります。
- 遅延した時間での検出(Delayed Signatures): LLPが崩壊によって生成した粒子が、検出器の特定のサブシステムに到達するまでに標準的な速度より遅れる場合、トリガーシステムやタイミング情報に基づいて検出されます。特に、ミューオン検出器など、検出器の外部領域での遅延ミューオンの探索が行われます。
- 特定の検出器サブシステムのみでの観測: LLPが、飛跡検出器を通過することなく、カロリメータやミューオン検出器などのより外側の検出器サブシステムで初めて相互作用や崩壊シグナルを示すことがあります。
LHCの主要な実験であるATLAS、CMS、そしてLHCbは、これらの特異なシグネチャを捉えるために様々な探索戦略を展開しています。
- ATLASおよびCMS実験: これらの多目的検出器は、広範な崩壊チャネルとLLPの質量範囲をカバーするように設計されています。飛跡検出器(Inner Detector)、電磁カロリメータ、ハドロンカロリメータ、そしてミューオン検出器といった各サブシステムが連携し、オフセットされた頂点、遅延したミューオン、消失する飛跡(disappearing tracks)などのシグネチャを探索しています。特殊なトリガー条件やオフライン解析アルゴリズムが開発され、バックグラウンド事象を抑制しつつ、微弱なLLPシグナルを抽出する試みがなされています。
- LHCb実験: LHCbはB中間子物理学に特化した実験ですが、長寿命のハドロンやレプトンを含む崩壊モードの探索にも強みを持っています。特に、比較的長い寿命を持つ暗黒光子や軽質スカラー粒子の探索において、高精度な飛跡検出能力と粒子識別能力を活かしています。
加えて、LHCのメイン検出器とは異なる設計思想を持つ小型実験(例: FASER, MilliQan, MoEDAL, CODEX-bなど)も、LLP探索の補完的な役割を担っています。これらは、従来の検出器ではアクセス困難な、非常に弱い相互作用を持つLLPのパラメータ空間を探索することを目的としています。
最近の探索状況と制約
LHCのラン1およびラン2データを用いたLLP探索は、多様なモデルに対して新たな制約を与えてきました。例えば、特定の超対称性モデルにおけるグラヴィティーノやスティーノのようなLLP、暗黒光子、重いニュートリノなど、幅広い質量のLLPに対して、過去の実験では到達できなかった感度で探索が行われています。
現時点では、いずれのLHC実験においても、LLPの明確な証拠は得られていません。しかし、これはLLPが存在しないことを意味するものではなく、単に現在探しているパラメータ空間に存在しないか、あるいは現在の感度では捉えきれないほど相互作用が弱いか、または寿命が長すぎる・短すぎるためである可能性を示唆しています。既存の制約は、新しい物理モデルの構築において重要なガイドラインとなっています。
将来の展望と高輝度LHC(HL-LHC)計画
LHCは現在、高輝度LHC(HL-LHC)へのアップグレードを進めており、2020年代後半には運用が開始される予定です。HL-LHCでは、現在のLHCと比較して約10倍のデータ量が蓄積されることになります。この圧倒的なデータ量の増加は、LLP探索に計り知れない影響を与えるでしょう。
HL-LHCでは、より希なLLP生成事象を探索する機会が増えるだけでなく、新たな検出器アップグレード(例えば、タイミング情報の高精度化や、飛跡検出器の空間分解能向上など)が、LLPシグネチャの識別能力を格段に向上させることが期待されます。これにより、より広いパラメータ空間(特に、より短い寿命や非常に長い寿命を持つLLPの領域)へと探索範囲が拡大される可能性があります。
また、LLPの探索は、暗黒物質の直接検出実験や宇宙からのニュートリノ観測など、他の新しい物理探索とも密接に関連しています。LHCでのLLP探索が新たな知見をもたらすことで、これらの異分野の研究にも大きな影響を与え、素粒子物理学全体の進展に貢献することが期待されます。
結論
長寿命粒子(LLP)の探索は、素粒子物理学の未解決の謎を解き明かすための、極めて重要な研究テーマです。標準模型を超える新しい物理の兆候を捉える上で、LLPは特異なシグネチャを持つことから、LHCのような高エネルギー加速器における精力的な探索が不可欠です。
これまでのLHCにおける探索では、LLPの明確な発見には至っていませんが、様々なモデルに対して厳しい制約を与えることに成功しており、今後の理論構築に大きな影響を与えています。高輝度LHCへのアップグレードにより、探索感度は飛躍的に向上し、より多くのデータと改良された検出器が、LLPの存在を明らかにする新たな機会を提供するでしょう。
LLP探索は、暗黒物質やニュートリノの質量起源といった宇宙の根源的な問いに対する答えを見出す鍵となる可能性を秘めています。今後も、LHCでの継続的な挑戦が、素粒子物理学の新たな地平を切り開くことに期待が寄せられています。